小田養蜂場について
昭和22年創業、養蜂一筋
良い蜂を育てれば、自ずと良い蜂蜜が採れる。
全ての蜜蜂から、同じ蜂蜜が採れる訳ではありません。良い蜂を育てることで、狙った花の蜜を集め、糖度の高い美味しい蜂蜜になります。天気と花は人間がコントロールできません。蜂屋の仕事は蜜蜂が元気に働いて、美味しいはちみつを作れる環境を整えることが一番重要なのです。
味にこだわったはちみつ
巣箱一杯に増えた蜜蜂は4〜8月の間、山口県内14箇所を花を追いかけて移動し、各地で蜂蜜を採取します。移動は蜂が活動を始める日の出前か、活動を終えた日が沈んだ後トラックへ積み込み、すぐに次の場所へ移動し巣箱を設置します。蜂蜜を採るのも早朝から行います。蜜蜂は集めた花蜜を巣に持ち帰り夜通し扇風して糖度を上げ、翌朝の活動する前が1番糖度が高い最高の状態になるからです。
遠心分離機で取り出した蜂蜜を網で濾して蝋や花粉等を取り除き、一斗缶で保管します。
瓶詰めの際にもう一度網で濾して検品後、皆様のお手元に届きます。
それでも取りきれない微細な花粉等が入る場合がありますが、品質には問題ありません。
結晶化した場合は低温で融解し、極力自然のままの蜂蜜をご提供できるようにしています。
養蜂家の仕事
1月
じっと春を待ちます。
2月
だんだんと暖かくなり、蜂もそわそわ。人もそわそわ。
3月
春の採蜜シーズンに向けて、どんどん蜂が増える時期です。餌をあげたりしながら産卵の手助けをします。
4月
巣箱いっぱいに蜂が増えます。様々な花が咲き始めるので各地に巣箱を設置します。
りんごの花粉交配のために巣箱を移動します。
5月
本格的に採蜜がスタートです。
メロンの花粉交配のために巣箱を移動します。
6月
採蜜の最盛期、梅雨に入るまでに1年分を採り切ります。
7月
避暑地に巣箱を移動します。
8月
スズメバチのシーズンが始まります。蜜蜂が襲われないように毎日見回りをします。
新しい女王蜂を育成します。
9月
スズメバチの攻撃はまだまだ続きます。
10月
自然には花が少なくなるので足りない分の餌をあげたりします。
いちごの花粉交配のために巣箱を移動します。
11月
冬ごもりの準備をします。
12月
寒すぎない沿岸部に移動します。
来年の春までじっと待ちます。
歴史
創業
小田養蜂場は1947年(昭和22年)に、山口県阿武郡阿武町で創業いたしました。創業者の小田 孟が小学生時代、教員が学校の敷地内で飼育していた蜜蜂を見たことから始まります。巣箱を開けては蜂蜜を食べたり蜜蜂の観察をするうちに養蜂への興味は高まり、中学生時代には兄とお小遣いを貯めて近隣の養蜂家から1群購入します。試行錯誤を繰り返しながら100群まで数を増やし、中学校卒業後、左官職人の父を手伝いながら養蜂業を始めます。
独立
養蜂と左官業を兼業していましたが、兄の結婚を機に養蜂家として独立、萩市に拠点を移します。全国の養蜂家が集まる鹿児島県に関心を持っていた小田 孟は、福岡県から萩市に来ていた養蜂家の紹介で春を鹿児島県鹿屋市で過ごすようになりました。それから約50年間、2月から4月までを鹿児島で、花を追いかけ山口県まで戻って蜂蜜を採り、冬を越し、春にはまた鹿児島に行く生活が習慣となりました。鹿児島県に集まる養蜂家は蜂蜜を採りながら北海道まで北上し、採った蜂蜜は業者に卸すのが主流でした。しかし小田 孟は、消費者に直接届けたいという思いから山口県から北上はせず、創業時から生産直販を行なっています。
日本養蜂業の転機
昭和50年代まで関東〜西日本を代表する蜂蜜といえばレンゲ蜜でした。レンゲは豆科の植物で農家には田んぼの緑肥として、養蜂家には蜜源・花粉源として優秀な植物です。しかしアルファルファタコゾウムシによる食害や、農業の機械化・化学肥料の普及でレンゲ畑は急速に姿を消すことになりました。これによって多くの養蜂家は大打撃を受け、廃業した養蜂家も少なくありませんでした。レンゲを復活させるべく様々な取り組みも行いましたが、小田養蜂場の店頭にレンゲ蜜が並ぶまで約15年を要することになります。
レンゲ蜜から山蜜へ
山口県養蜂組合がレンゲ蜜に代わる蜂蜜として販売したのが「山口のはちみつ」です。当時は国内の糖度の最低基準が77度でしたが80度にすることで、地域特産品認証マーク(Eマーク)を取得し百花蜜に付加価値を付ける取り組みでした。同じ時期に採ったハチミツでも糖度が1度変わるだけで、まるで違う蜂蜜のように感じます。80度を超えるとただ甘いだけではなく、コクがあり本当に美味しい蜂蜜になるのです。小田養蜂場では更に独自の基準を設け、クセが無く色の白い(透明に近い)蜂蜜を使うことで、ワンランク上の蜂蜜を目指しました。現在山口県のEマークは無くなりましたが、同じ名前、同じ基準を守り続け、小田養蜂場の蜂蜜には欠かせない主力商品となりました。